「本当の気持ちなんてマンガにしか描けないよ」――『中国嫁日記』に

今更なんだけど、井上純一『中国嫁日記』の、単行本について書く。
レビューでもないし、感想でもない……いってみれば、まあ、思い出話だ。
 
 
僕が、井上さんに初めて会ったのは、十五年ほど前で、その時僕はまだ学生だった。
十五年の間、仕事の上で、というか、そもそも仕事を始めるところから、本当にお世話になったし、「やにおくん、生活苦しいでしょ」と、同人誌の原作を任せてくれて、その頃色々と行き詰まっていた僕には、その収入は本当にありがたかった。
 
井上さんが結婚するまで、僕は井上さんと、毎月、最低でも一回は食事をし、朝までアニメやゲームの話をした。井上さんは、そのたびに「金に困ってないか?」と聞いてくれた。
仕事で何度も迷惑をかけて、怒られたことも何度もあって、それでも、月に一回は食事をして、朝までアニメやゲームの話をしていた。
 
 
中国嫁日記』1巻に収録された書き下ろし長編「中年男と中国娘」には、井上さんが月(ゆえ)さんと出会い、そして、「お付き合い」を始めるまでの経緯が描かれている。
 
ここで描かれたエピソードを、僕はすべて、井上さんから聞いたことがあった。
中国に通い始めた時のこと、K水さんのこと、お見合いのこと、デパートでの最初のデートのこと、海南島のこと。
井上さんから聞いていた話と、マンガに描かれていた話は、少しずつ、食い違う。
 
たとえば、マンガの中の「ジンサン」は、月さんに初めて会ったとき「…か!! かわいいっ」と思う。
一緒に食事をした時の「井上さん」は「中国人の見合い相手ね−、まあ、若いけど、そんなすごい美人ってわけじゃないよ」と言った。
 
たとえば、「ジンサン」は、海南島に月さんを誘う時、「オロオロ」して「ドキドキ」する。
「井上さん」は、「今度、海南島に行くことになったわー。でもまあ、きっとうまくいかないしね、まあ、どうでもいいよね」と言っていた。
 
僕は――井上さんと知り合って十五年目の僕は、『中国嫁日記』を読んで、
「マンガの中の『ジンサン』こそ、『本当のこと』だ」と、そう思った。
 
 
井上さんが結婚して、毎月、一緒に食事をして、アニメやゲームの話をする習慣がなくなった。
それから、しばらくして。
久しぶりに会った井上さんに、僕は言った。
「僕が当時、井上さんから聞いた話と、マンガの中の話は違う。でも、マンガの『ジンサン』の方が、本当でしょう?」
 
井上さんは、少しだけ照れたような顔してから、「そうだよ」と言った。
「本当の気持ちなんてマンガにしか描けないよ」
 
「みんなそうだろ?」
 
僕は、井上さんを指さして笑いながら、「みんなそうなわけないでしょ。あんたアホですか」と思ったので、そう言った。
井上さんは、なんだか釈然としない顔で、「そうかなぁ……?」と呟いていた。
 
 
見合いから、結婚するまで、井上さんはずっと、「彼女」の話を、どうでもよさそうに、つまらなそうに話していた。
中国嫁日記』の単行本を読みながら、僕はあの時の、井上さんの、どうでもよさそうな、つまらなそうな顔を思い出す。
そして、くくく、と、思い出し笑いをする。
 
「本当の気持ちなんてマンガにしか描けないよ」
 
末永く、お幸せに。
 
 

中国嫁日記 一

中国嫁日記 一

中国嫁日記 (二)

中国嫁日記 (二)